吟詠つれづれ

「 生きる姿勢について 」

このところ、「立場でものを言う」と言う点について考えることが度々ある。

仕事とは、「立場でその役割を誠実に果たすこと」であるが、立場ゆえに明快に線を引くことも多々必要となる。

しかし、どの状況でも人間だものね、「自分の本音」と言うものをしっかり掴んで取り掛かることが必要だ。

その自覚は重要であり、誠実にこなしながらもスマートに本音を覗かせる一瞬は、その人物の人となりが垣間見られ、

心が動く瞬間でもある。勿論のこと、良き姿勢が垣間見られることは爽やかで心洗われる力を頂ける。

 

昨今の日本社会では、仕事の場面においてもハラスメントはいけないとのことで、さまさまな立場の方の発言がしやすくなったように思う。

それはそれで、とても必要なことである。酷い労働環境の下で人が傷んでゆくことは絶対に避けたい。

ただ、この状況に乗じて、大手をふって一方的に「被害者ポジション」を武装しての無節操な発言を飛ばし、

これまで継続して来た平穏な関係に投げ込まれる時、すでに本質的な対話は終了する。

 

昨今このような事案が多くなったように思うし、周りからも聞こえてくる。

権利を主張できるのが弱い立場だけで、より強い立場と見なされた者は「大義」のための痩せ我慢をすることを強いられる場面が多いと聞く。

米国では、金髪、白人、裕福であることは最早「罪深さ」であるとのことで、医師や弁護士を目指すときには不利な前提が設けられているとも聞く。

 

常々頭に思い浮かぶ言葉がある。

「孤掌鳴り難し」

とは良く言ったもので、一方が弁えていても他方が「言葉」に対しての弁えすら持たない時、

良い仕事、良い関係、発展的な対話は昨日までの見通しの良さをあっさりと消し去って、見事に頓挫をし、眼前にはゴツゴツとした岩場の絶望しか見えない。

もはや、我々は個で生きて行けると勘違いし、睦あうための共通言語を失っているのであろうか。

いや、言葉の前の希望=信じることを損ねているのであろう。

 

母が、譬え話を用いて幼い頃からよく諭してくれていた言葉を思い出す。

「この一寸の口が災いをもたらす。一回言葉にしたことは後になって三頭立ての馬を以ってしても元には戻らない。」

と。厳しいことを言う時も言葉を間違ってはならないと。自覚して語るようにと、覚悟を教えてくれた。

後になって自ら反省が起これば見返りを求めずに謝罪も良いと思うが、いかにも心得として教育してくれたことに感謝する。

 

師匠と弟子。先生と生徒。医師と患者。会社と客。

それぞれの「空間」はまさしく双方の弁えがなければ、成立しない。

平等主義も理解してはいるものの、美しい姿勢に欠ける様相にはつくづくも希望がないと感じる。

 

調和とは、そのことが分かる人間教育の上に立つものだろう。

このようなことすら矜持として持てないならば、もはや社会は動物園であるように思うが、それが真実のようだ。

 

人間が人間であるための「自戒と協調」はあらゆる生活文化についても同じく必要であったのだが、このところ遭遇することすら

稀である。

互いに弁えがある間柄、前後の情の言葉を尽くして向き合う力を持つ者たちは、いろいろなことがサクサクと片付き、困難の課題すら発展と深い信頼の情が生まれ、互いの生きる喜びとなる。

 

「孤掌鳴りがたし」

〜とは良く言ったものだ。

自分の姿勢についてももう一度じっくりと選択し、学んでゆこうと更に思うこの頃である。